アメリカの町の委員会で話し合ったことだけれど、ひとつの問題で対立する町民がうまくやっていくために、「common ground(共通点、合意できること)」を探して協働するんですよね。そういう提案をしているのにさらにその意図を誤解する人もいるから難しいんですが(苦笑)
— 渡辺由佳里 Yukari Watanab (@YukariWatanabe) 2015, 8月 28
ツイートを眺めていたら、目がとまった。ので、意見を述べてみようと思う。
こういった問題は、どの分野でも起こるのだと思う。
ふたつの異なった『正義』をまとめるのは、困難を極めるに違いない。
しかし、どうにかまとめなくてはならないときには、上で述べているように、
共通点、合意できることを探すほかない。
デザインの現場でも、同じようなことがある。
仮にAプランとBプランがある場合、それぞれ全く異なったプランを協議している時、
そのふたつの中間にしようという動きが出てくる。
残念ながら、デザインの現場においては、これは、根本的な解決に導けないケースが多発する。
うまくいく場合は、ほぼない。
結果、ぼやけたプランになってしまうからである。
そうすると、場は治まったものの、最悪の結果になる。
ぼやけたプランは、だれも愛さないからだ。信念も、コンセプトもぼやける。
ユーザーもぼやける。悪い事尽くめだ。
だけど、一度、その中間案の流れに乗ろうとする動きがあると、止まらなくなってしまう。
双方、穏便にすまそうという、紳士協定が根底にあるみたいだ。しかし、それはオトナの悪い癖だ。
嫌な予感に気づいた時には、遅い。
デザイナーという立場は弱い。
実績や経験があっても、それを述べても、結局のところ、権利を持つ者(つまりクライアント)の意見に従わなければならないからだ。
とはいえ、軸からぶれないように、説得できる能力を持てるように努力を惜しんではいけない。
最大の力を使って、軌道修正を試みる。
『怒る』(いかる)という手段は、もってのほか悪い結果になるので気をつけるべきだ。
匙をなげるのと変わらない。
それをすると、将来に繋がらない。のだ。色んな意味で。
今回のデザインが、一体誰のモノなのか。という原点に立ち戻れば、与えられた場(時間)の中で、最大限の軌道修正ができるはずだ。
話し合いには、最終的に『根気』が必要なのかもしれない。
また、民主主義的な多数決では、いい結果にならないことを知っておくべきだと思うのです。
票の数でも、中間でもない。違うところに答えがあるはずです。
*上記のツイートに反論するわけでは毛頭ございませんです。『デザイン』を考える上でのテーマとして、問題提起の題材としてとりあげたかっただけです。デザインの現場で遭遇することに、非常によく似ていたので、とりあげさせていただきました。